『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー 』-アイデンテティとラベリング-

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー 』-アイデンテティとラベリング-

みんなに読んでほしい本

こんにちは、ナッツ。です。

今年はたくさん本を読むぞ!と決めてまだ「たくさん」には到達できていないんやけど、、笑 最近読んだ本の中でジェンダー学とも大いにかぶってくる内容だったブレイディみかこさんによる『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』について今日は書こうと思います。

この本は、イギリスに住む著者の日常をベースに描かれているんやけど、主に日本人の母とイギリス人の父を持つ息子の日々が語られているのね。

イギリスはかなりの階級社会でエリートとそうではないこ達の格差がものすごく激しい。その中で主人公の男の子はエリート校から”底辺校”へ転校して、様々な社会現象(貧困や差別など)を経験するんよ。

その中でやはりぶつかるのは「アイデンテティー」。自分は誰なんだ?って言うことを男の子はすごく問うねんな。イギリス人でもないけど、日本人でもない、周りはチンク(アジア人に対する差別用語)と言ってくる。

自分が認識している自分と周りが「ラベリング」してくる自分。ラベリングは多くの場合差別につながる。『ぼくはイエローで、ホワイトで、ちょっとブルー』を読んで、私は特に「ラベリング」について考えました。

ラベリングって何?

「ラベリング」とは、ステレオタイプをその人に貼り付ける感じ。

見た目が「アジア人」だから、きっと静かだろうとか、数学が得意だろうとか、イメージを勝手に持たれることかな。「数学が得意そう」とかは、あまり害はないのでいいんやけど、人がラベリングをするときって多くの場合相手を周縁化したい時やねんな。だからアジア人に対して「イエロー!」とバカにする。マイノリティとして扱うんよね。

ジェンダー学的な視点で見るとラベリングは、例えば医学部受験で「女は妊娠してすぐやめてしまうから」という偏見のことや、「男の保育士はちょっと、、、」という思い込みを指す。向いてる、向いてない、できる、できない、を性別で判断しラベルを貼っていく。そして周縁化していく。

そんな社会いやだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!

なんて私は心から思うけどね。

自分が認識している自分を大切に

自分が認識している「自分」がいて、「ラベル」により無理やり認識させられる強制的な自分(アイデンテティ)が存在する。

私の場合、「女性である」、「堂々としている」、「関西人だ」、というのは自分が認識しているアイデンテティだけど、「アメリカンだ」「日本人らしくない」はどちらかというと無理やり認識させられたアイデンテティに近い。

無理やり貼られたラベルって扱いに困るんよね(笑)たまに逆手にとって日本語わかんなフリとかするけど(笑)けどなんとなく、ラベリングで渡されたアイデンテティは、私をマジョリティーから追い出すものに聞こえてしまうんよね。きっとジェンダー問題の中にあるラベリングもそのため。

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』ではお母さんが「どこにも属さない方が人は自由でいられる」と言い、息子はそれに対して「どこかに属している人は、属していない人のことをいじめたりする。」と言った。

私はこれに同感とてもする。自由であり不自由。やけどやっぱり最終的には自分が認識しているアイデンテティを大切にすること、周りが勝手に貼ってくるものはできる限り無視することが心にとっては健全かなぁ、思ってます。(けど社会がそうさせてくれないこと多々、、涙)

いずれか今の社会が理想に追いついて、その人の個性が最も素晴らしいアセットと評価される社会を願って私も行動したいなー、なんて!

とりま、ほんまに読んでみて!


ほなね!ナッツ。